セガフレッドのマグカップ
誰もいないキッチンで黙々と作業に打ち込む。普段なら讃美歌のCDに合わせて歌いながらのはずだが、ビルの事が頭から離れない。
ハードボイルドな彼は悲しむというより、怒っていた。意気消沈した姿を見たくはないが、怒るだけのエネルギーがあるので心配はしない。さっきはショックで脳がフリーズしていたが、だんだんと色んな思いが巡り始めた。
「20年近くあそこで人生を費やしたんだよな」
陽の当たらないウィンヤードの地下で、ネズミのように毎日働いたのだ。アメリカン・コーヒーラウンジは土日も営業しており、休みがないのはきつかったろう。ギリシャ移民にとってそれは宿命か。
タバコの煙が充満した以前の狭い店で、わずかな従業員と働いていた時は楽しかっただろう。コストも責任もプレッシャーも少なく、何より多額の借金もなしだ。あのまま続けたら、どんなにか儲かっただろうに。
「もう誰も頼る人がいなくなるのか」
開店時から、分からない事は何でもビルに尋ねた。もちろんニックにも助けてもらった。彼らの存在は僕の中ではとても大きかった。何しろ、右も左も分からないウィンヤードで、やった事もない飲食業を始めたのだから。既に10年もここの主としてやって来た彼らは、まさに天からの助けだった。
セガフレッドのロゴのついたマグカップを手に取り、ジョヴァーニを啜る。トリプル・リストレット・ラテの色や苦味は日によって違う。今日のは色も浅い茶色で、苦味も弱く、クリーミーな味が支配的だ。
僕はマグを口に運ぶ時に、その香りを楽しみたい。だから紙コップに蓋をしながら飲むなど言語道断だ。香りは言わずもがなだが、視覚的にも楽しめない。運転する時だけは不本意ながら蓋をするが、それ以外の時は必ず紙コップの蓋は外す。
薄い泡に織り込まれた茶色の濃さで、どんな香りか想像つく。白が強ければ、ミルクで蓋がされているようなもので、事実、マグを唇に当てても、牛乳のマイルドな匂いが強い。カフェインが鼻腔を抜け脳に直結する刺激は期待できない。泡の中やふちに濃い茶色が多分に含まれていると、それはやって来る。そしてそれが脳に達した瞬間、スポットライトを浴びたように脳内が明るくなり、視界が冴え渡る。
最初の一口を流し込む時に、まずガツンと舌の先の方に苦味を感じたい。そしてミルクのコクと甘味が後を追い、舌を這う。ジョヴァーニの出来が良好な時には、わずかな酸味も含まれ、その全てが口内で混ざり合い、喉を通過した後、鼻から強い香りが抜けていくのが好きだ。
「今日はイマイチだな」
毎日2〜3杯飲んで来たので、その出来栄えに一喜一憂するだけの感覚が養われた。ジョヴァーニは美味しいだけでなく、体が軽くなり、作業が倍のスピードでこなせるのだった。僕にとって、それはカフェインというドラッグだ。その効きは4時間だと分かった。そして特に疲れた時や落ち込む時は、キャラメル・スライスや、バターがじゅわじゅわするフィナンシェを頬張ると頭が冴え、気分もハイになるのだった。
「まさか…大変じゃないか」
しゃりを入れた青いケースを運びながら、再びセガフレッドのマグに目をやった。ビルの事ばかり考えていたが、僕にとっても大きなロスだ。ビルよりも古株の人といえば服屋のマイケルがいるが、彼とはほとんど会わないし、飲食業については知らない。
いや、そんな事より僕のドラッグはどうなるのか。もうジョヴァーニが飲めないとなると、仕事にならない。
「ああ、もうだめだ…辛すぎる」
ビルの気持ち、ビジネスの難しさ、ジョヴァーニが飲めなくなる事、今まで助けてくれた事についての感謝、そして何でもない日々の世間話…それらが入れ替わり立ち替わり、浮かんでは消え、そして舞い戻って来る。
「でも、まあすぐに売れるとは限らんしな…残された日々を大切にせんと」
エスプレッソ・マシンのカウンターに立っているビルと毎日3回顔を合わせ、短いながらも言葉を交わす日々だった。それは当たり前すぎて、永遠に続くものだと思っていた。