ワルツ
土曜の午前、移民のごった返す市場から戻り、既に怠さを感じている。今日はもう何の予定も入っておらず、完全フリーなのだ。怠さを感じるのは、緊張が緩むからだろう。演奏の仕事がある日は、たとえそれが夜であってもやはり緊張しているのだ。
換気のため、汚れた窓を開けるとひんやりした風が入って来た。木製の窓枠は古く、押し上げるには力が要る。そのせいか、すり抜けていく海風が、一層心地よく、ありがたく感じる。
週末の朝は学校や車のノイズが無く、静寂がボロアパートを包む。聞こえて来るのは鳥のさえずりくらいだ。セイント・レナーズ公園の木々に潜む鳥たちの声が鮮やかに響き渡り、春の日差しを浴びた新緑の葉は眩しく、時折その生い茂る葉を落としながら鳥たちが飛び立つのが見える。
リヴィングのカウチに体を沈めたら眠ってしまうので、Uさんを連れて近場をドライブする事にした。カーステにはジョビンのCDが入っている。「Love,strings & Jobim」のオープニングはマーチで、幸せな人生の門出を祝福するような曲。まるで映画のオープニングのようで、Uさんとの人生の始まりにぴったりだ。
深緑のカムリはまず、ミラー・ストリートを南下し、ノースシドニー駅の前を通り、ミルソンズ・ポイントからハーバーブリッジの下を抜けてキリビリの住宅地を走る。この辺りはシドニー湾岸沿いで、対岸真正面にはオペラハウスが鎮座している。そのせいで住宅は日本並みにひしめきあっている。当然道路も狭くて曲がりくねり、坂が多い。ドライブには適しておらず、運転手は運転に集中せねばならない。
ただ助手席に乗る人は、何度かオペラハウスの勇姿を堪能できる。それは一瞬の事で、すぐに景色は住居や樹々によって遮られてしまうが。坂を登る途中でニュートラル・ベイに突入し、そのまま行けばミリタリー・ロードに突き当たり、その向こうはキャマレイへと続く。それではいつもと同じなので、ミリタリー・ロードよりずっと手前のニュートラル・ベイの居住地をモスマン方面に向かって走る事にした。この辺りはシドニー湾を臨む絶景でありながら、広々としてのどかなのが良い。
シドニー湾はクルーズ船がいつもより多く浮かんでいるように見える。やはり週末だからか。紺碧の海と空の青は、ハーバーブリッジから眺めるのと少し違って見える。ここからの方が湾への距離が近く解像度が高い。空の青さが濃く深いのも海の色を反映するからだと思う。橋の場合、空に近く海から離れているためか、空は明るい青色だ。
少し走ると再び入江にぶち当たる。クレモーン・ポイントと呼ばれ、入江の周りは住宅が密集しているが、緑が豊富で沢山のヨットやクルーザーが浮かび優雅な雰囲気だ。対岸のオペラハウスは若干遠のくが、それでも良く見える。
ここと比べると、さっきのキリビリの辺りはごちゃごちゃし過ぎだ。更にフリーウェイの反対側に、ノースシドニーのビル群がそびえ立つ。あれもまた都会な感じがして、僕にとっては優雅さに欠ける。昼間は緑が多く閑静な方が、優雅に感じる。夜は寂し過ぎるかも知れないが。
Uさんはこの辺りには馴染みがないので、新鮮だと喜んでいる。この先はいくつもの小さな岬があり、僕も良く知らない。モスマンに突入すると更に高級住宅地がグレードアップする感じがする。庭が広く、家も大きくなる。シティから少し離れるからだろう。だが離れるといっても、実はフェリーで通勤すればシティはすぐ目の前ですぐに到着する。
勤める会社がウィンヤードならバス通勤を選ぶかも知れない。ロックスやマーティン・プレイス方面であれば、フェリーの方が通勤時間は短いと思う。ロウアー・ノースショアの住民にとって、フェリー通勤はごく普通の選択肢なのだ。僕は波止場の近くに住んだ事がないので、フェリー通勤はした事はない。毎朝巨大なオペラハウスの目の前を通過し、サーキュラーキーに到着するのは、さぞかし感動するだろう。
モスマンは道路も広めだし、起伏があっても運転しやすいので、とても快適だ。ジョビンのオーケストラが優雅で幸せな時間を引き立ててくれる。海沿いのカーブが多いドライブには、弦楽器のワルツが良く馴染むのだった。