最後にデイヴは最初に弾いていたヴォイシングを弾いた。
「それよ」
我々はリズの言葉に耳を疑い、互いに顔を見合わせた。
「冗談じゃない、これが最初に弾いていたやつだ」
スティーヴは時間を浪費した事に腹を立てた。確かにドラマーはこの不毛な時間は無駄に感じるに違いない。こちらは何とかして要求に応えられるよう、あれこれ試していられるが、ドラマーは黙っているだけだ。
試行錯誤しているうちに聴覚もおかしくなって、何がなんだか分からなくなるのだろう。同じ事が料理やワイン、香水などでも起こる。僕は仕方がないと思った。
「あら困ったもんだわ。今日の運勢は良くないって書いてあったけど、まさにその通りね。デイヴはどんな運勢だったかしら、チェックしてたんだけど、多分ダメな日ね」
リズは自己弁護しようとしてか、また占いの話を持ち出した。
「それ、やめろって言っただろうが」
スティーヴの怒鳴り声が教会堂に響いた。温厚な彼が怒るのは、時間を浪費されたからだろう。だがそれだけではないと思う。長年のデイヴとスティーヴ・モリソンとの交流によって、彼もまたキリスト教に対して理解を示すようになっていた。デイヴがそう教えてくれたのだが、意識してスティーヴを観察していると、求道とまでいかなくとも、心を開いているのが見受けられる。
それゆえにデイヴが「やめて欲しい」と頼んでいる事を、何度も犯すリズの神経の図太さに、第三者として文句を言いたかったのだろう。
だが後の祭りだ。嫌な雰囲気のまま、リハは終わって解散した。スティーヴが帰った後、リズは我々に尋ねて来た。
「なんでスティーヴは突然クレイジーになったの」
「分からないな」
僕もデイヴも嫌な雰囲気をひっぱりたくない。なるべく元通りの雰囲気に戻して、解散したかった。
「それにしても何よ、スティーヴのあの汗。なんであんなに汗かくのよ、変だわ」
それは我々も気の毒に思っているが、リズは身体的な事を小馬鹿にした。真っ黒の大きなサングラスで目を覆っているが、口元が笑っている。
「じゃあ、マリオットで会いましょ」
手を振りながら白い歯を見せ、路駐してあるフォードに乗ると、キキキと音を立て急発進して去った。それを見て、僕らは笑った。
「女の運転だな」
リズは笑ってみせていたが、スティーヴに言われて動揺していたのだろう。
「女性シンガーとやると、大抵こうなるんだよな」
腕を組み、通りを見つめながら、丸顔のデイヴがしみじみとつぶやく。
「最初はおとなしいんだけどさ、慣れてくるとだんだん要求してくるんだ」
「今日のは時間の無駄だったな」
「そう、理論的な事は分からなくてもいいけどさ、使う言葉さえわきまえていれば、角は立たないんだよ」
「でもさシンガーだってコードについて知らなきゃ、話にならんよ」
とはいえ耳の良い人は、専門用語が分からなくても大丈夫な事もある。実際、JJBAのシンガーのSさんは、多分理論は知らないと思うが経験豊富で、コードに対して遠い音を使い分ける事が出来るし、スキャットをした時にそこが良し悪しの一つのポイントになると思う。