ミルクを温める
「売りに出そうと思ってな」
早朝6時いつものように、アメリカン・コーヒーラウンジでジョヴァーニをオーダーすると、予期せぬ事態となった。僕は耳を疑った。
「えっ…」
ビルは目を伏せたままミルクを温める。返す言葉が見つからない。
「もう決めたの?」
「ああ」
ゆっくり顔を上げ、一旦客席の一番奥を睨んだ。そして左斜め前にいる僕の方を向いた。20年近くこのウィンヤード駅の全てを見て来たその眼には、悔しさが滲み出ている。
「…」
「もうこれ以上やったら駄目だ。今なら売却した金で借金が払える」
「そうだよね…わかるよ」
なんとか声を絞り出し、ビルからマグカップを受け取った。そのまま立ち去るのは無礼だし、だからと言って何を言えば良いのか。
「…」
苦し紛れに僕はぐるっと客席を見渡した。朝6時、100席ある扇形のラウンジにはまだ誰もいない。ガラス張りになっており、電車を降りた人達が改札を抜け、オフィスに向かうのが見える。何人かは真っ直ぐジョージ・ストリート方面へ、ある人達は階段を降りてハンター・コネクションへ、そしてある人達は僕が立っている左側を通りウエストパック・プラザへ。
「喫煙法が大きかったな」
「そうだね」
「コーヒーとトーストは利益率が高いからな、朝の常連客がタバコ吸えなくて激減した」
まだ店を始めた頃、ジョヴァーニを買いに来るのに煙まみれになったのを思い出す。客の顔はタバコの煙と新聞に覆われ、テーブルには灰皿とコーヒーカップ…それが朝の景色だった。
「でもさ、鉄道局にリノベーションを迫られなければ、借金も背負わずに済んだよね」
「まあな…俺はこの店も気に入ってるけどな」
店を始めた頃、まだ半分の大きさだった。それが鉄道局に「隣にもレストランを入れる」と半ば脅迫に近い形で、ビルは2店舗分の契約をせざるを得なくなった。大規模な工事、新調された器具、その時の設備投資が命取りとなった。
今もラウンジは美しく、新装開店した時と変わらない。ウィンヤード駅のランドマークと言えるし、この界隈で働く人なら、みんなここを待ち合わせ場所として使った事だろう。
リノベーションを強いられた事、カフェで喫煙できなくなった事、それらは大きい。それ以外にも、消費税がいきなり10%で始まった事、オリンピックが肩透かしだった事、その他の事件が重なり、何かとブレーキがかかってしまった。
オリンピックの始まる前がピークだったと思う。あの頃はランチタイムになると、店に入りきれず客が外に溢れていた。
規模が大きければ儲かっているとは言えない。ビルの場合、以前の小さな店の方がよほど儲かっていたのだ。法律が変わったり、要らぬ設備投資したり、大規模にしたため人件費が増したり、もちろん家賃、電気代、高額固定資産税(賃貸なのになぜか払わされる)、契約の手数料、弁護士代、全てが跳ね上がる。
繁盛している時は問題無いが、失速すれば規模の大きさは全てが足枷となる。見栄えの良さなど、何の気休めにもならない。
「ウィンヤードにいる人なら誰もが知っている店」ビルにとってそれが誇りだったに違いない。だがその支えも限界を迎えたのだった。