デリバリー
エンロンの破綻によるITバブル崩壊と共に、2002年は苦しい戦いを強いられている。一等地にあるスタバですら潰れたのだから相当だろう。だが最も打撃を受けたのはノース・シドニーであり、沢山のIT企業が潰れた。そしてオフィスビルはガラガラになったと聞く。
うちもどうしたものか、困ったものだ。何をしても上手く行く気がしない。だからと言って何もしないでいるわけにもいかない。
何かをせねばという強迫観念だけで行動を起こすと、上手く行かない事が多い。だが、猪突猛進しなければ切り抜けられないかも知れない…そんな時に、ある日系企業から弁当のデリバリーを頼まれた。
「弁当のデリバリーやってみる?」
「いやぁ、全然儲からんぞ…」
「でもさ、何かやらんと」
デリバリーはかつてやった事があるが、色んなリスクがある上、儲からない。だが今は儲けよりも、売上を増したい。売り上げを増すというより、客を増やしたい。
コスト削減はやった。あとは自分が動いてカバーするしかない。一番やりたくない事だが、この日系企業をきっかけに、数社営業に回った。なぜ一番やりたくないのかといえば、うちの商品はまがいものだからだ。日本人向けに作られていない。
それはまず第一に、日本人を相手にしたら店が潰れるだろうという理由があった。ひと月、百万円以上の家賃を払うのに、ターゲットを超マイノリティの日本人にしたら自殺行為に等しい。第二に、僕が日本人に納得してもらえるような商品を作れないと思っているからだ。
だが一応、日本人にも食べてもらえる、サバ弁当や、寿司弁当がある。とりあえずそれだけをデリバリー商品とする事にした。それらは利益はほとんどない。配達などすれば無駄となるのは分かっているのだが…
現時点で未開拓のマーケットで、即効性のあるのは日系企業だけだ。だから新規顧客獲得のために、面倒な事もしなくてはならない…と思った。
面倒な事が分かっているので、既存商品を増量し、受注し、配達する、作業を増やす事を可能な限り抑えた。そしてたとえ注文が10食だったとしても、キッチンには新しい事を始めたという刺激が加わった。
結局、デリバリーに行く僕が一番面倒なだけで、あとは適度な「やっている感」が漂った。前進しようとする雰囲気、動きが何となく気持ち良かった。
ただし、それをしばらく続けていると、その雰囲気にも慣れてしまうのだった。また、お客さんの方も飽きてしまうのだった。メニューが二つしかないのは致命的だった。次第に注文数が減っていった。
「どうする?」
「メニュー増やすか?」
「どうやって?無理だよ」
作業の段取りは既に固定されている。そこへ新しいメニュー、しかも儲からない日本人客のために、わずかな量を作るというのは、完全にナンセンスだ。
「畜生。もうやめよう…断って来るよ」
営業に行って、頭を下げてお願いし、そして出来なくなったからと断るとは…何とも情けない。恥ずかしいし、腹が立った。こういう事になるのは、少し考えれば分かったはずだ。目先の事しか考えず、血迷った判断をした自分がバカだった。
「申し訳ありません…」
深々と頭を下げ、ビルから出ると、嫌な役を終えた安堵があった。そして歩き始めると、何とも重苦しい気分になった。
「俺は何てバカなんだ…こんな卑しいマネをして、結局こんなザマで終わるとは」
今まで日系企業に頭を下げるとか、人並みの営業活動などした事のない僕には、腹立たしいい結末だった。
「何を言ってるか?こんなの営業一筋の人なら、きっと何も感じないだろうに」
「トライした自分を褒めてやるべきだろう」
「はあ、これからどうしたらいいんだろう…」
などと色んな考えが交錯するのだった。そして混乱し、負のスパイラルへと落ちて行く。下を向きながら歩くと、もっと気分が悪くなるので、天を仰いだ。ビルに囲まれてはいるものの、綺麗な青空が覗いていた。
「おお、主よ…どうすればいいのでしょう?」
そう言ってみても、空からは何の応答もない。そのまま歩き続けるしかなかった。
店に戻ると、赤いポロシャツを着た女の子が、メイと話しているのが見えた。すぐ裏にあるウエストパック・プラザのスイスデリの従業員だ。
「メイさん、どうしたの?」
「なんかさ、彼らのケータリングにうちの寿司を入れたいんだってさ」
オリンピックの頃に、彼らはうちにオーダーを入れてくれていた。オリンピックが終わるとオーダーは無くなった。それは他の企業も同じだった。
「良いねえ」
「やっぱりさ、どこも厳しいんじゃない?」
スイスデリにしてみれば、増え続ける寿司テイクアウト店を羨ましく思うのだろう。そのほとんどは韓国系の、既にあるマーケットからかすめ奪うだけの出店なのだが…勢いがあるように見えても仕方がない。
だから彼らのケータリングメニューに巻き寿司を加え、トレンドにあやかりたい気持ちは痛いほど分かる。
「そういえば、ノースシドニーのスイスデリはキツいだろうなあ…」
今一番落ち込んでいるノースシドニー駅のグリーンウッド・プラザには、スイスデリの大きな店舗がある。その店こそ、視察時に僕がノースシドニーに店を出したいと思った理由なのだった。
「これからちょくちょくオーダーに来るから宜しくねって言ってたよ、良かったじゃん」
「わお、それは嬉しいな」
デリバリーは失敗したが、スイスデリという大先輩からオーダーを貰えて、それが大きな励みとなった。デリバリーでは全く儲けが無く、全くの無駄だったのが、これならちゃんと儲けがあるのだ。
「主よ、ありがとうございます」
自分の努力とは全く関係のない、想像もしなかった所から、助けがやって来た。天を仰いで応答が無かったのも当然だ。既に事は済んでいたのだから。