シドニーに来る前の自分
ギター講師の仕事も店と比較すれば、超楽だ。アグニェチカが営業してくれるので、僕はただギターを持参して教えるだけ。英語で教えるのが唯一の問題だが、ビジネス上の面倒は彼女が全て責任を負っている。
音楽教室も日本食の店も、側から見れば単純なビジネスだろう。だがビジネスである限り、付随する細々とした仕事が色々あるので面倒だ。生徒に教えていればそれで済む訳ではないし、巻き寿司を作って売れば済む訳ではない。
彼女の大変さは良く分かるので、なるべく彼女の意向に沿ってあげたいし、彼女の成功に貢献もしたい。初めの頃は、ひたすら受け身で、この仕事はやりたくなかったが。
演奏もギターレッスンも、目の前に与えらえた機会をこなしているだけだ。しかし、元々これが自分のスキルだし、やりたかった事だった。
下げてあったカーステのボリュームを戻した。60年代終わりから70年代初めのカントリーというか、ポップロックというか…何とも区分けがしにくいグレン・キャンベルとジミー・ウェブのアルバムは最高だ。それにしても2004年の今、こんな曲を聴くやつなんているのだろうか。
「そういや、リズも変な曲って貶してたな」
彼女だってセルジオ・メンデスみたいな古いやつを、堂々と歌っているじゃないか。彼女は「時代は60年代がサイコーよ」なんて言ってたな。グレン・キャンベルだって同時期なのに。
このアルバムは10ドルCDショップで買った。ジャケットが余りにブサイクだったので、惹かれたのだ。グレン・キャンベルは中学時代からFMで聴いて知っていたので、買ってみたのだが、それが大当たりだった。そもそもジム・ウェブは知らなかった。ソングライターとして超有名な人らしく、それもこのコラボのヒットからキャリアが花咲いたと最近知った。
僕はギターの練習はしないが、音楽を聴くのが練習みたいなもので、観察するように聴いている。そればかりだと、純粋に楽しめなくなってしまうので、時には何も考えずに聴く努力も必要なのだ。ジム・ウェブの曲はシンプルなのもあるが、面白いコードチェンジが含まれていて、ついそこに耳が奪われてしまうが。
ローズヴィルの辺りでCDが一回りしたので、J ポップのディーンのCDに差し替えた。これはテクニカルな事は考えずに、一緒に歌える。歌詞が日本であるのと、メロディもめちゃくちゃ高音域まで行かないので歌えるのだ。眠気を吹き飛ばすには、歌うに限る。
カーブの多いエリアを過ぎて、僕はカムリのアクセルを若干踏み込んだ。
暗い夜道の両脇は木々で覆われている。日中なら緑が美しいのだが、夜になると住宅の光さえも遮ってしまうのだった。冷却され降りて来た空気には、樹木の爽やかな香りが濃縮されている。夜風を浴びると、日中とは違う匂いを楽しめた。
「Oさん、元気かな」
兄の友達で開店の時、手伝いに来てくれたシェフのOさん。シドニーに来る前の1995年には、彼が名古屋でやっていたフレンチの小さなレストランに、何度か通ったのを思い出す。このディーンのアルバムは、その時の兄のカーステで良くかかっていた。
歌って眠気を飛ばすだけでなく、初心に戻らせてくれるアルバムでもあるのだ。
もう何年もガス欠状態で走り続けているが、それでもあの当時の「この先どうなるか全く分からない」という状態を思い出せば、今を感謝せずにいられなくなる。それに「店の傍ら演奏の仕事も出来たらな」と、朧げに夢に描いていた自分を思い出すようにしている。それもまた感謝しかない。
だから時々ディーンを聴いて、シドニーに来る前の自分を思い出すのだ。
真っ暗なパシフィック・ハイウェイを、窓全開で訳の分からない日本語の歌を絶叫するのだった。