マリオット・ホテル
「聞いて、マリオット・ホテルでやる事になったわ。ちょっと何これ、変な音楽ね…めちゃくちゃ聞こえるけど」
リズの興奮した様子が、携帯電話越しに伝わって来るが良く聞こえない。カーステのボリュームを慌てて下げた。グレン・キャンベルとジミー・ウェブの「リユニオン」というアルバムを爆音でかけて走るのは、僕くらいなものだろう。
「えっ、何だって」
「マリオットでやるわ」
ギターレッスンからの帰宅途中で、運転中なのだ。アッパー・ノースショアのパシフィック・ハイウェイは、曲がりくねっている場所がいくつかあって危ない。
「…あ、そう…いいじゃん。ごめん、今運転中なんだ。で、どこにあるの?」
慌ててパワーウインドーのボタンを押す。9月に入り暖かくなって来たので、窓全開で夜風を楽しんでいたところだ。
「あんた知らないの、サーキュラー・キーよ。ルネッサンスだったとこよ」
ルネッサンス・ホテルか、それなら知っている。ピット・ストリート沿いで、サーキュラー・キーとオペラハウスがすぐ目の前にある。ホテルの裏の通りに入れば、ベースメントがある。あの辺りはベースメントのライブをよく観に行ったので馴染みがあった。ルネッサンスが潰れてマリオットになったのは知らなかったが。
「第1土曜日の夜8時から12時まで、11月から4ヶ月やるから。ギャラは一晩200ドルよ、スケジュール入れないでね、よろしく」
「えっ、ああ…4ヶ月ってさ、11月、12月…」
「プツ…ツー、ツー、ツー」
僕の反応が遅いからだろうか、それともみんなに連絡を取るためか知らないが、リズは言いたい事だけを言ってすぐに切ってしまう。まあ、運転中だしいいか。
「11月から4ヶ月っていうと、11、12、1、2月…そうか夏の間やるんだ。まあ、200ドルならいいか」
夏だしセルジオ・メンデスとかブラジル系の音楽が、ホテルのラウンジにマッチするという事か。それにしても、リズは良く仕事を取ってくるな。僕はただギターを弾くだけ、楽なもんだ。毎日、キッチンで格闘するだけでなく、その他それにまつわる諸々の面倒があるのと比べれば、演奏の仕事は天国じゃないか。
演奏の仕事は純粋に「自分がやりたかった事」の実現であり、それだけで満足だった。慣れるまでは緊張したし、今も初めての人と演奏する時は緊張する。それに週末を返上して出かけるのは、妻に悪いと思うし、体が辛い。だから如何にそつなくこなし、さっさと帰宅できるかという事に注力していたのだった。今まで店と演奏を「仕事」として比較した事はなかった。
再び窓を全開にした。はだけたシャツの胸元と、袖を捲りドアからはみ出した右上腕と、顔に夜風が直撃する。ひんやり心地良いだけでなく、疲れた脳を眠気から救ってくれるのだ。
カーブが多いエリアは真剣に運転せねばならないが、アッパー・ノースショアは閑静過ぎるエリアなので、夜になるともう真っ暗だ。週3日この道を通るで慣れてしまい、帰りは眠くなる。
「でも、アグニェチカは10月から週4日にしてくれって言ってたな…うーん」
店の責任を負うと決意し、ハードルを高くしたら少し気分が楽になったので、講師の仕事も同じなのだろうか。初めの頃よりも慣れて来たし、週3も週4もそんなに変わらないか。